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SHINICHI ARAKAKI / MASTER CRAFTSMAN

父の人生が、
一対の守り神になる。

尊敬してやまない父、
新垣信一という人を紹介させてください。

父のシーサーを眺めていると、勇ましい表情の奥に、どこか温かさを感じることがあります。その理由をお伝えするには、まず父が歩いてきた人生をお話ししなければなりません。

父・新垣信一が工房で大きなシーサーを一体ずつ制作する姿
新垣信一 制作風景

FROM HIS SON

いま僕が一番好きなのは、
職人としての父です。

はいさい!しまんちゅ工房の新垣(あらかき)です(^^) 2005年から、沖縄で生まれたシーサーを皆さまへお届けしてきました。今日は僕が尊敬してやまない父、新垣信一の話をさせてください。

父にはいくつもの顔があります。工場を守ってきた経営者。地域のために働いた政治家。そして、僕にとっては父親です。その背中はあまりに大きく、僕自身、追いかけるばかりで悩んだ時期もありました。

けれど今、僕が一番好きなのは、工房で土に向き合う職人としての父です。余計なことは語らず、ただ目の前の一体を見つめ、手を動かす。その姿をそばで見られることが、何より嬉しいのです。祖父母から始まったものづくりに、僕たちはまた帰ってきたのかもしれません。

父がつくるのは、暮らしのそばに置く一対の魔除け獅子。その顔を見つめるたびに、そこには父の生き方までもが表れていると、僕は感じています。

50代の新垣信一が一体のシーサーと向き合うモノクロ写真
50代の父。一体のシーサーと向き合う、その眼差し。

ONE BY ONE / HAND-BUILT

一体ずつ、
この手で生み出す。

父の作品は、型を使わない完全手びねりです。土の塊から体を起こし、目をつくり、牙を刻み、毛並みを一本ずつ整えていく。簡単にやり直せない仕事だからこそ、一つひとつの手の動きに迷いがありません。同じ顔をしたシーサーが、ふたつと生まれない理由です。

並べた写真は、50代の父と75歳の父。四半世紀の時間が流れても、土と向き合うときの眼差しは変わっていません。

01 / SINCE 1950

ものづくりの原点は、
祖父母の生きた時代にあります。

1950年、祖父・新垣菊信は、赤瓦の産地である与那原に新垣花鉢工場を創業しました。父はその長男として生まれ、やがて二代目を担います。僕たちの家にはいつも土があり、窯があり、ものをつくる人の手がありました。

けれど、その始まりをたどると、戦争の時代に行き着きます。祖父は戦地で、ある戦友から「生きて帰れたら妹を貰って欲しい」と頼まれました。二人は戦争を生き延び、祖父は沖縄へ戻って、その戦友の家業だった島袋瓦工場で働きます。そして、戦地で交わした約束を果たしました。

戦友の妹が、僕の祖母です。祖母は宮崎へ疎開し、生き延びました。一方、祖父自身の妹は沖縄戦で命を落としています。祖父の妹も、祖母も、名前は「菊」でした。同じ時代に、生き延びた命と、失われた命があった。そのことを思うと、僕たちが今ここにいるのは、決して当たり前ではないのだと感じます。

祖父母は、ときどき戦争の話をしてくれました。「戦争に比べたら……」。その言葉とともに、五人の子どもを育て、働き続けた二人の強さを僕は覚えています。父の中にある不屈の心は、きっと祖父母から受け取ったものです。そして僕も、祖父母への感謝と、戦争で失われた命への祈りを忘れず、生かされたこの命に誠を尽くしたいと思っています。

40代の新垣信一が大きな登り窯に薪をくべ、火を見守る昔の写真
40代の父。大きな登り窯に薪をくべながら、窯の火を見守っています。
若い新垣信一が町議選初出馬の演説をする様子と、家族が写る古い写真
父が29歳で町議選に初出馬した時の一枚。中央を走り回る子どもは、僕です。

02 / THE PUBLIC LIFE

工場と町に、
人生を捧げた父。

若い頃の父には、社会をより良くしたいという理想がありました。学生運動が激しさを増していく時代、父は「こんな事は俺の理想じゃない」と大学を中退し、家業へ戻ります。理想を捨てたのではなく、自分が立つ場所を変えたのだと、僕は思っています。

父は工場を大きく育てながら、青年会の活動にも力を注ぎ、島尻地区の青年会長を務めました。その後は与那原町議会議員を23年、町長を4年。町長時代には自らの給与を減らし、町長車両を廃止するなど、厳しい行政改革にも踏み込みました。人に求める前に、まず自分から。その姿勢は、工場でも町政でも変わらなかったように思います。

「町民の為に町長になり、自分の為に町長を辞める」。そう話して、父は一期で町長を退きました。長くその椅子に座ることよりも、自分が果たすべき仕事を大切にしたのだと思います。

父を見て、僕が学んだことがあります。リーダーの務めは、自分の後に立つ人を育てること。そして、肩書がなくなっても、その人の生き方までなくなるわけではないこと。僕は今も、父の背中から教えられてばかりです。

人は、何度でも立ち上がれる。
父の手が、僕に教えてくれた。

03 / 不撓不屈

03 / UNBROKEN WILL

右手を失いかけた父が、
左手で土をつかんだ。

41歳の時、父は土をこねる機械に、利き腕の右手を巻き込まれる大事故に遭いました。緊急手術を受けたものの、医師からは「もう二度と元のようには動かない」と告げられたそうです。職人にとって、どれほど重い言葉だったことでしょう。

そんな父に祖父が伝えたのは、「第一線の制作ラインから外れ、シーサーを制作しなさい」という言葉でした。できなくなった仕事を数えるのではなく、まだできることへ目を向けさせた。その言葉が、父の新しい道の始まりになりました。

父は、使える左手を利き腕にしました。土に触れることを、諦めなかったのです。

そばには、母がいました。父を支えるために車の免許を取り、リハビリの日々をともに歩みました。父もまた、懸命に右手を動かし続け、やがて両手でシーサーをつくれるまでに回復したのです。かつて動かないと言われたその手で、再び作品を生み出す。そして父は、あの事故を「天命」と呼ぶようになりました。

人生にはほかにも、大切な人との別れがあり、家族を介護する日々があり、自らの病と向き合う時もありました。それでも父は、目の前にある現実から逃げず、今の自分にできることを一つずつ重ねてきました。苦しみを知っているからこそ、人の平安を願う気持ちも深くなる。そんな父が、その手で祈りを込めて生み出す一体だからこそ、僕は父の作品を最高の魔除け獅子だと思うのです。

土と向き合う新垣信一の真剣な眼差し
逆境を超えて、再び土へ。

「両手でシーサーが制作出来るようになった。事故は天命!」

父が困難の先で語った言葉
2022年8月20日、久高島を歩く新垣信一と孫
2022年8月20日、久高島にて。父と、僕の息子。

04 / THE NEXT GENERATION

祖父から父へ。
そして、次の世代へ。

祖父は菊信。父は信一。そして僕は信人。僕の息子は慶信。四代の名前には、同じ「信」の文字があります。文字を受け継ぐことはできても、その意味を生きるのは、それぞれの人生なのだと思います。

父が29歳で初めて選挙に出た写真には、小さな僕が写っています。家族に囲まれて立つ父と、その足元を走り回る僕。それから長い年月が流れ、2022年の久高島では、今度は父の隣に僕の息子がいました。写真を並べると、時の流れが胸に迫ります。

僕が子どもたちへ渡したいのは、名前の一文字だけではありません。困難な時にも、できることを尽くして、人を信じ、自分を信じて歩むこと。父が生き方で教えてくれた、その姿勢をつないでいきたいのです。

父がつくった守り神も、皆さまの家で歳月を重ね、いつか子どもや孫の世代まで大切にしていただけたなら。それは、つくり手の家族として何よりの喜びです。

05 / BYAKUGO · THE LIGHT

獣が神へと目覚める。
眉間に込めた、光。

ここまで父の人生をお話ししたのは、父がシーサーの眉間に入れる、小さな印の意味を知っていただきたかったからです。

父はこう語ります。「もともと獣だったシーサーが、焼き物師との出会いで、獣から神に目覚める」。そして制作の最後に、眉間へ白毫(びゃくごう)を入れます。それは、ただ形を完成させるための作業ではありません。父にとって、一体の獣が守り神になる、大切な瞬間なのです。

「苦難の時こそ導いてくれる光が必ずある」。

どんなに苦しい時にも、明日へ進むための光を失わずに生きてきた父。その父が土に向き合い、最後に白毫を入れる。そう思って作品を見ると、険しい顔の奥に、静かな優しさが見えてくる気がします。

だから僕は、白毫を単なる飾りだとは思えません。自分自身が苦難をくぐり抜けてきたからこそ、誰かの暮らしにも光が届くようにと願う。父の祈りが、そこにあるのだと信じています。

新垣信一作、赤焼きシーサーの顔と眉間の造形
獣から神へ。父の哲学が宿る、白毫。

THE HANDS AT WORK / FILM

父の手が、
一体を生み出す時間。

目を細めて形を確かめ、指先で土を押し、毛並みを一本ずつ刻んでいく。父は制作中、多くを語りません。その手の動きを見ていると、完成した一対にどれほどの時間と気持ちが込められているのか、少し伝わる気がします。よろしければ、映像でもご覧ください。

新垣信一のシーサー制作映像
しまんちゅ工房でご紹介している父の制作映像。

06 / THE FINAL CHAPTER

最後まで、
自分の手でつくりたい。

地域のために働いてきた父は、その歩みをたたえる叙勲を受けました。息子として誇らしい出来事です。それでも僕がもっと心を動かされるのは、工房に戻って一体のシーサーと向き合う父の姿なのです。

「国宝級の作品をつくりたい」。父はよく、そんな大きな夢を口にします。歳を重ねてなお、まだ上を目指している。そのことが、僕にはたまらなく嬉しいのです。

父は陶芸の賞を目指して歩いてきた人ではありません。祖父母から受け継いだ工場を守り、地域の仕事を担い、家族の喜びも苦しみも経験してきました。その人生を通り抜けた今だからこそ、生まれる造形がある。僕にはそう思えるのです。

新しい作品が生まれるたび、以前とは違う表情に驚かされます。もう十分すごいのに、父はまだ変わろうとしている。いくつになっても、挑戦をやめない人なんですね。本当に凄い父です(^^)

叙勲を受けた際の新垣信一の肖像
叙勲時の父・新垣信一。

SHINICHI ARAKAKI / SELECTED WORKS

父の手から生まれた、
守り神たち。

ここまで父の物語を読んでくださった皆さまに、今度は作品そのものを見ていただけたら嬉しいです。力強い赤焼き、静かな白、深い藍、そして金。色も表情も一体ずつ違います。けれど、その奥にある、誰かの幸せを願う気持ちは同じなのだと思います。

手づくりの作品には一点ものが含まれます。掲載作品の販売状況・価格は、各作品の詳細ページでご確認ください。

A NOTE FROM NOBUHITO

この想いと一緒に、
守り神を届けたい。

父のことを話し始めると、まだまだ伝えたいことが出てきます(^^) けれど、作品を見ていただくために、知ってほしかったのはたった一つ。父は、自分の人生を引き受けながら、今日まで土に向き合ってきた人だということです。

そんな父の手から生まれた一対を、僕がお客様へお届けできる。息子として、これほど幸せな仕事はありません。毎月の終わりには御嶽へ参拝し、お迎えいただいた守り神が、皆さまの平安に寄り添ってくれるよう祈っています。

苦しい日にも、嬉しい日にも。どうか一対のシーサーが、皆さまの暮らしのそばにありますように。そして、その想いが子々孫々まで受け継がれていきますように。

最後までお読みいただき、いっぺー、にふぇーでーびる。
しまんちゅ工房 新垣信人

土に触れる日々も、家族と過ごす時間も。
父の人生の一部です。